ラーメンは、専門外である。
食べ物を書く仕事にも随分長いこと身を置いているが、俺の専門は「呑み」で仕事は流しの酔っぱらいだから、酒とあまりなじみのないジャンルは敬遠しているというところがある。甘いものもそうで、甘いものに目がない人たちのように、がっつりと追いかけるようなことはしない。
ラーメンは、それこそ手練れがたくさんいて、情報もあふれかえっている。都内だけでも「旨いラーメン屋」は千軒を超えるリストができあがっているはずだ。
一日三杯喰っても一年かかるんだぜ。そんな腹があったら酒を呑むさ。
でも、ラーメンはきらいじゃない。大好きだ。
だから、自分が住んでいる身の周りで旨い店を探して、ちょくちょく行っている。
昔は、特別なときは中野にあった「高揚」に行った。30年前で、たしか一杯千円くらい取る、なかなかに豪勢なラーメンだ。手打ち、青竹で踏んだつるりとした麺。あっさりとして、けれど後を引く旨いスープ。店の中のガラスケースには、串刺しにしたトカゲのようなものものもあって、おそらくあれは漢方系の薬膳のスープなんだったと思う。少し、薬くさい気もした。それがいいのだ。餃子もでかかったな。
高揚はいまはなくなってしまって、そこの味を継いでいる人はいるようなのだが、「思い出の味」なので、わざわざ出かけていかなくてもいいかなあとも思っている。
通った店はもうひとつあって、西荻窪にできて、後に阿佐ヶ谷に移転して、一年かそこらで閉めてしまった「龍 みちのく」というラーメン屋だ。
亭主は、アリさん。イラン人である。
なぜ「みちのく」なのかはよく分からないが、「将来、東北に温泉ラーメン屋を開きたいんだよね」と言っていた。イラン人であるが、おそらくムスリムではないだろう。豚骨スープのラーメンも作っていたからね。
ここでは、いつも小さな鋳物のスキレットで焼いた羽根つき餃子と、メンマでビールを呑んだ。昼間もやっているし、深夜もやっていたな。メンマはとても面白くて、煮かたは珍しくないのだけれど、大量の粗挽きの黒胡椒をまぶして出してくる。
これが、旨い。
ビールは、スーパードライの350ミリ缶、清酒も大したものではないけれど、その胡椒がぴしっときいたメンマで呑むと、ともかく旨い。日本人の文脈とは違う「タケノコの食い方」だ。というか、日本人とはスパイスの概念が違うのだなあと思い知らされたのだった。以来、俺は家呑みでメンマがあるときは、ミルでたっぷり黒胡椒を挽いて、上からエクストラヴァージンオイルをちょいと垂らしている。ビールにも、清酒にも、白ワインどころか赤ワインも、水割りにすると白く濁る、アニスの香りのきいたラクまでも受け止める、最強のアテのひとつである。
話は戻る。すみません。このちっとも定期的ではない書きものは、ふらふらと酔眼でぶれることで成り立っているのです。
で、戻ると、この「龍 みちのく」という店は、何をおいても「矢作ラーメン」という、油そばが旨かった。野菜たっぷりの豚骨ラーメンもとても美味しかったのだけれど、ここの油そばはともかく絶品と言っていい。濃いめの味の、ごま油のきいた油だれに小麦の香りがする太めの麺を絡めて出てくるのだが、唐辛子や揚げニンニクのような独特の香りがする。そこに、トッピングで例の黒胡椒たっぷりのメンマを載せる。納豆とか、キムチも人気があったけれど、俺はひたすら「矢作メンマ大盛り」だ。激辛ではないけれど心地よい唐辛子の辛みと、胡椒のスッキリした辛みが重層的にやってくるこの矢作ラーメンは、メンマ同様にに日本人の舌の文脈には無いもので、オリジナルがどこかは分からないけれど、イラン人のアリさんならではの仕立てになっていた。
ウィグルの郷土料理のひとつに、ラグマンというものがあり、これはラーメンのルーツだと言う人もいる。汁なしのものもあって、それには羊を使っている。このラグマンが、シルクロードを伝わり、同じく海路で胡椒が伝わったペルシャで、こんな料理があるのだ、といわれても納得してしまう。いいな、羊の「脂」そば、喰いたいぞ。中央アジアの羊は、尾にたっぷりと脂肪を蓄えていて、それを溶かして料理に使う。最近では、若い人は「臭い」と言って食べないらしいが、昔ながらの「臭い、旨い」料理になるだろうな。
そういえば、十年くらい前にライン河沿いにワインの取材に行ったときに一緒になった朝鮮日報の若い記者は「ぼくも含めて、最近の若い韓国人はキムチが嫌いなやつがけっこういるんだよ」と言っていたっけな。
日本人でも梅干しが嫌いな奴多いからね。俺も含めて。紅ショウガも、青じそも、福神漬けも嫌いだよ、俺。
そんなわけで、ラーメンは結構好きだ。麺類全般が好きなので、あたり前と言えばあたり前なのだが。
で、俺が、生まれてからこの方、もっとも好きだ思うのは、西荻窪にある「はつね」のラーメンである。
西荻窪の駅を南側に出て、すぐ前には魔界がある。有名な焼き鳥屋の「戎」や、醤油煮込み豚足世界一だと勝手に思い込んでいる「珍味亭」、なぞのカレー居酒屋やら、かつてブルース刑事こと又野誠治がやっていたAサインとか、ともかく怪しい呑み屋がずらりと並ぶ痴態いや地帯である。又野誠治、呑み友達だったよ。いつもばったりあの界隈であると、やつはたいてい酔っ払っていて、人混みの中でハグをして、その辺お店にふらりと入って一緒にビールやらホッピーやらを呷っていた。普段、呑みに行こうとかそういう約束をするのではなく、行き会ったら呑む。そんな、ずっと離れた友達だった。一方的に友達と思っていたのかも知れないけれど、そこで会えばかならずハグをするのだから、俺は彼のことを友達だと思っていた。
そんな一角に、昼少し前から、夕方までしかやっていない、小さなラーメン屋がある。
それが、はつねという店だ。
カウンターのみ、たしか、五席だ。
昔から人気がある店で、行列が出来る。
ラーメンにそれほど入れ込まない理由のひとつに、行列が出来ることがあるのだが、ここはせいぜい並んでも十五分。それ以上の時は並ばないで別の店に行くことにしている。
この店の少し先に、かつて「登亭」という洋食屋があった。いまは「よね田」というやきとり屋になっていて、でかいつくねで人気を博している店だ。西荻界隈でやきとり屋が生き残るのは難しい。できては消え、大手が進出しても潰れる。元々西荻窪はチェーン店に厳しい街で、ケンタッキーも、その系列のやきとり屋も長続きしなかった。ずっとあるのは松屋とマクドナルドだが、松屋は創業社長が上井草で(いまでも本社は吉祥寺だか三鷹だかのはずだ)この界隈のスナックで飲み歩いていたから意地でも潰さないとか、マクドナルドの藤田田もこのあたりに住むだか呑むだかしていたので、その名残もあって潰せないとか、いろいろな噂がささやかれている。よねだは、そんな中で生き残ってきた店だが、その前にあった「登亭」という店は、なんとも不思議な店だった。
茶色くなった油で揚げたねずみ色の揚げ物の盛り合わせのランチがメインで、いろんなメニューがあった。ミックスフライ定食とか、チキンサラダ定食とか、チキンかつ定食とか。
けれど、見た目はすべて同じである。ねずみ色の揚げ物の盛り合わせだ。
微妙に変わっているらしいのだが、食べ比べをしないので、違いが分からない。たいていは、一番お手頃なチキンサラダ定食だったか、ソレを頼むのだが、海老フライもカニコロッケも乗っている。
登亭のご主人は、最後のころは、正直よいよいで、手元も少しおぼつかないことがあったが、連れ合いさんと二人で、ずっとその場所で脂っこいがっつりした定食を出していて、四十代から上の、学生時代を西荻窪で過ごした貧乏人たちは、みんなお世話になっていた。だから、最後の営業日には、そういう常連たちが何十人も集まってきて、昼間は最後のチキンサラダ定食を食い、夕方にはのぼるさん(本名は違う)を拍手で送った。俺もそこに参加していて、皿を一枚もらい、サインをしていただいた。のぼるさんは、翌年だか、亡くなられたそうで、仕事を辞めて張り合いがなくなったのか、仕事ができる身体ではなかったのか、それは分からないが、幸せな店の終わりだったと思う。
また話を戻すと、そんな界隈に、これも昭和の時代から続くはつねというラーメン屋があって、いまでも、ラーメンは一杯六百五十円である。
古い建物の、小さい店だが、店の中はいつもぴかぴかに磨き上げられている。
これは、先代のご主人、ちょっとまぎらわしいからおやじさんと呼ぶが、おやじさんの性格だった。古いけれど、古ぼけてはいない、清潔な調理場。多分、店は、五坪もないのではないか。入口の左手奥には瞬間湯沸かし器があって、席は狭く奥の席に座るのに客の後ろを通るときには、出た腹は引っ込めないといけないような店である。いつもラジオがかかっていて、それは乾電池式のポータブルである。
メニューはきわめてシンプルで、ラーメン、チャーシューメン、ワンタンメン、タンメン、もやしそば。これに、かつては味噌ラーメンがあったと西荻生まれの知人は言うが、三十年前にはすでになかった。少なくとも、俺の記憶にはない。煮卵もない。餃子もない。ライスもない。ラーメンだけである。
店の暖簾は青い。
たしか、以前は赤かった記憶があるのだが、平成になってからしばらくして掛け替えた。
おやじさんはベイスターズのファンだった。正確に言えば、大洋ホエールズのファンで、木訥とした人だったが、通ううちに話を聞くと、おなじクジラ男だとわかった。「若い頃はね、あたしは川崎球場のバックネットによじ登ってヤジを飛ばしたクチですよ」と教えてくれた。
ベイスターズが優勝したのは1998年だから、おそらく翌年かその翌年くらいに暖簾を掛け替えたはずだ。
「おやじさん、暖簾はやっぱりアレかい、ベイスターズかい」と水を向けたら、にやりと笑ったのを覚えている。
おやじさんの仕事はとても丁寧で、無駄がなかった。カウンターでラーメンを作っている姿を見るだけで、ああ、この人の作ったものは旨いよなあ、と思わせてくれる、力が抜けた所作である。
同じことを思ったのは、人生の中でもう一人。すきやばし次郎の小野二郎さんだ。
なんの外連もない、自然な立ち姿で、神経をとがらせていることはみじんも感じさせず、淡々とラーメンを作り続ける。そんな姿に惚れ込んだファンは多かったはずだ。
この店は、いまはタンメンが大人気だ。特に春キャベツの季節のたんめんは格別で、柔らかいキャベツを丁寧に切り、さっと炒めて鶏ガラをベースにしたあっさりとしたスープでさっと煮込む。
じつは、このタンメンは、二十年前はいまほどの人気ぶりではなかった。やっぱりラーメンと、大食いはチャーシュー麺とか、チャーシューワンタンメンを注文していた。けれど、俺をはじめ、何人かの食い意地の張った連中が、パソコン通信とか、当時始まったばかりのブログやらラーメンサイトやらSNSやらでやたらと「タンメンが旨い」と言ったので、いつのまにかはつねはタンメンが旨い店という評判になってしまった。
すみません、おやじさん。手数が多くて面倒臭かったでしょう。
一切メディアの取材を受けないことで有名だった。多分、いまでもテレビはおろか、雑誌の取材ですら受けていないと思う。いまはSNSで写真をアップするのが当たり前だが、デジカメや携帯のカメラが出回った頃には、おかみさんがちょっと嫌な顔をした。
いまでも、俺は「写真を撮っていい?」とひとこと入れる。いや、決して敷居が高い店ではないのだが、ただでさえ狭い店、メディアに出て人が押し寄せると、毎日来てくれる常連さんに迷惑がかかる、というのがおかみさんの考え方だった。多分、大きくメディアに出たのは、二回。一回は、江口寿史さんだ。江口さんは、最近はあまり行かれてないと言っているが、以前はちょこちょこ通っていたようだ。そしてもう一回は山本益博さん。彼も西荻にずっと長く住んでいるはずで、いまでもかつどんで有名な坂本屋とか、いまは閉めてしまったうなぎの名店、田川とか、西荻の店を書いている。
そんな流れではつねのことを記事にしたのだと思うが、おかみさんはたいそう怒ったようだ。
「あの人は出入り禁止にしたの。勝手に書いたから」と笑いながら言っていたな。
(後編に続く)
文:坂井淳一
「職業は酔っぱらい」を自認するフードジャーナリスト。光文社BRIOの食べ歩き記事をはじめ、多くの雑誌でのレストランガイドを担当。「東京感動料理店」(共著)なども。「今日は何を呑もう」からメニューを考える「酒ごはん研究所」主任研究員。